218 「ハマスホイとデンマーク絵画」展
美術館で初見した自分が知らない画家の絵画.
それがずっと脳裏に残り続けるのは珍しいことだ.
ちょうど昨年の2月頃のこと.
上野の国立西洋美術館の常設展でこの画家の作品を初めて目にした.
たしか企画展の「ル・コルビュジェ_ピュリスムの時代」を見た後だったと思う.
いつものように, 常設展はサラっと遠目から流すように, ちょっと気になった絵画だけ近づいてみるようにして廻っていた.
「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」
という作品だった.
一見, 部屋と奥でピアノを弾く後ろ姿の人物が描かれただけの普通の絵なのだが,
抑制された色使いと, 一部超写実的な描写にただならぬものを感じて立ち止まった.
「新規収蔵作品」との表示があった.
これまで見たことも聞いたこともない画家.
しばらくその作品の前に立っていた.
非常に寡黙だが, 独特の空気感のある作品だった.
そんなハマスホイの絵画が企画展で見られるということで, 先日行ってきた.
前半は同時代(1800年代)のデンマーク絵画が中心で, 後半にハマスホイの作品が並ぶ.
いずれも, ここ10年ほどで見た絵画展の中で一番印象に残ったと言っても過言ではないほど, 自分にとっては印象的なもので, ヨーロッパの古典美術的なベースを持ちながら, どこか非常に現代的に感じられる様相があった.
先述の「ピアノを弾く妻イーダ」の絵画.
手前の銀皿のある円卓の上はとても精緻に写実的に描かれている.
それに対して, 奥の扉や肝心の人物は若干ぼやかされている.
円卓の一点にピントが合わせられ, そこからの距離感によってピントのボケのような感じで部屋の奥行きが表現されているように見える.
同じく本展に展示されているギーオウ・エーケンという画家の
「飴色のライティング・ビュロー」
という作品にも同じような技法が感じられる.
画面右側, 表題の書き物机の飴色の表面に反射する光や, 壁面の額縁表面に映り込んだ後景などが, やはり精緻に描かれている.
対して画面左側は焦点からズレているかのようにぼやかされている.
これはつまるところ, 写真特有の技法ではないか.
写真や映像ではよく被写界深度を操作し, あえてピントの合う範囲をフォーカスさせ背景をぼかす技法が用いられる.
これらの絵画も, 画面の一部にピントが設定され, 奥行き感が思い切り強調されている.
絵画は通常, 人間の目で見た状態, つまりすべてにピントが合っている状態が描かれると思うのだが, これらのデンマーク画家の作品は共通して写真や映像作品のように, レンズを通して見たような状態をあえて描いているように見える.
別の画家, ユーリウス・ポルスンによる「夕暮れ」という作品.
まさに画面奥(中景と後景の間あたり)に焦点があり, 肝心の描く対象物となる風景部分は全てピンボケした状態を描いている.
古典的な西洋絵画でこのような表現のものがあっただろうか.
この絵は, 止まった一瞬を静止したものとして切り取ったというより, 何か画面自体がまだ時を続けるような, 次第にピントが合っていくのではないかというような印象を与えている気がする.
彼らの絵画を非常に現代的だと感じたことの正体は, もしかしたらこの独特の表現にあるのではないか.
彼らの時代にそうした概念がどれほどあったかは不明だが, 少なくとも我々はiPhoneとinstagramが普及し, 進歩した映像技術が身近になった時代に生きている.
被写界深度のコントロールは今や映像でも容易に行えるようになり, 多く映像作品がその技法を取り入れている.
レンズを通したようなこれらの表現は, 人間が目で見て描いたのでは欠落しそうな, 空間にある微妙な歪みや空気感などを, 観るものに感じさせる.
また映像でこうした表現を見慣れた我々からすると, これらは静止画ではなく焦点距離が動く動画を連想させる.
実は北欧は映像撮影機材で優れた企業が多いという話を聞いたことがある.
北欧独特の映像に対する繊細さが, もしかしたらこれらの絵画にも表れているのかもしれない.
印象に残った作品の一つ, ハマスホイの「農場の家屋, レスネス」。
大地・二棟の家屋・空, この間に存在するさまざまな光の対話・大気の対話が精緻に描かれた作品.
シンプルで, 静謐でありつつ, これもまた脳裏に刻まれる作品だった.
※写真は展覧会公式図録より