410 廃墟もしくは神殿とレトリック_Kimbell Art Museum
建築家でルイス・カーンが好きという人は結構多い気がする.
近代建築の4大巨匠と言われる, コルビュジェ, ミース, ライトそしてカーン.
先般書いたレンゾ・ピアノと同様に, カーンの建築もまた, 自分にとって実はよく分からない存在だった.
単純に美術館としてはただただ長いヴォールト状の空間が5ブロック反復される構成.
ヴォールト頂部のトップライトからの光が柔らかく天井の曲面に沿って落ちてくるところや, 各部各部のディテールなどは, 確かに美しい.
美しいのだけどそれ以上ということはなく, 構成の単調さがこの空間のクラシカルさを強めているし, ヴォールトにしてもどこかポストモダン的な印象を覚えてしまう.
無骨な構造, 静謐な光.
もちろんとても良いのだけど, どこか感情移入しきれない自分もいた.
なぜ各要素をここまで重厚にする必要があるのか.
光を得るためとはいえ, なぜここまでアーチ状に形を作る必要があるのか. しかも反復で.
この辺りは建築の好みが分かれるところなのかもしれないが.
内部を歩いた後, 再度外部のアプローチ空間を歩いてみて一つのことを思った.
カーンが本当に作りたかったのは, この外部空間だったのではないかと.
神殿の一部のような場所. 非常に心地の良い吹きさらし空間.
30m近く長さのあるヴォールト空間は, 30mに渡って間柱が一本も無い.
右側に至っては一切の壁が無く, 水盤に面して巨大な開口となり, 左側も壁上部にスリットが通り全くヴォールトと接していない.
だからここのヴォールトは風をはらんでただ浮かんでいるような, とても軽やかな印象を持っていた.
一番不思議だったのは, その先のアプローチ動線の行方だ.
この吹きさらし空間はメインのアプローチ動線上にある(上の写真 左側のヴォールト下).
メインアプローチにも関わらず, ヴォールトが終わったところで舗装が砂利敷きとなりバッサリと切られる.
舗装だけでなく, この前庭にはオリーブもしくは柑橘類のような樹木が規則正しく列植されている. まるでアンダルシア地方のイスラムモスクの前庭のよう.
ヴォールト下を抜け, この前庭に出て, すぐ左が美術館のメインエントランス.
しかしヴォールト下から来ると飛び石もなければ, 視界的にもメインエントランスのファサードがこの列植で完全に遮られる.
どのようにアプローチしても, 必ずこの列植に視界を遮られながらエントランスにたどり着くことになる.
これは一体どういうことだろうか.
たどり着いたエントランスにはまたひと山の吹きさらしヴォールトがあり, 奥にはスリットから神々しい光が差し込んでいた.
つまりこれは廃墟のレトリックではないだろうか.
久しく打ち捨てられた悠久の神殿.
建物はすっかりと植生により侵食されて人の気配も無く, 屋内と屋外の区別もない.
けれど生育した植生をかき分けてたどり着くと, その建物の神々しさはそのまま残されている.
この通りでは無いにしろ, このおかしなアプローチにはなんらかの強い意図を感じずにはいられない.
一見単調に思えた内部空間にも, 数カ所の中庭が取られている.
鑑賞者の休憩のため?それとも採光のため?
こじんまりした中庭には, トラバーチンの台座の水盤に水が流れ, 前庭と同じ植生が整えられている. ここもいわば侵食された廃墟のようだ.
侵食は永遠に止められている.
けれどもしこの屋外の侵食がさらに進んだらどうなるだろうか.
もしかすると, カーンが本当に作りたかった空間はその時に初めて立ち現れるかもしれない.