415 建築化された「散歩」_EPFL Learning Center
スイス, ローザンヌにあるEPFLラーニングセンターを訪れたのは2012年のこと.
完成して間もない頃だった.
いうまでもなく空間体験は圧倒的に印象に残ったのだが, 当時はまだとても月並みな表現になってしまいそうで文章化ができなかった.
後年に完成したGrace Farmの空間を体験してからだと, EPFLはとても実験的であると同時に, 二つの対極的なものからなる空間だったということを思い出した。
その二極とは, 起伏しながらなだらかにゆるやかにひとつながりになっている内部空間と, その結果生み出されたダイナミックな太鼓橋状の構造に覆われた外部空間である.
芝生の新緑が映える牧歌的なランドスケープの中に, 突如としてこの土木スケールの日陰ができ, その中央にまた光の差し込む穴がある. その向こうにはまた新緑が続く.
風景の連続なのかあるいは断続なのか. 外部空間では, 景観的には連続しているが, 空間はUFOのように異質である。
一方で内部空間.
平坦な大地の風景に対して, 新たに置かれた地形のような起伏.
周囲の大地の風景を借景しながら, その中を公園のように散歩する感覚.
不思議なのは, その「公園を散歩する」感覚が平坦な屋外よりもむしろ屋内の方が強く感じられること. それでありながら, 屋内はどこまでも屋内であり, 屋外との接続が実は全く無いこと.
一応, 内部空間のあらゆる箇所が通路であり居場所でもある.
けれどここを利用する学生たちは, 低くて平らなところに集まりがちだった.
水が低いところに溜まるのと同じような感覚だろうか.
平らなところに人が集まって何らかの活動が生じ, それを取り巻くような地形的な周縁部を通り過ぎる人や座る人との間に, ゆるやかな関係性を作り出そうとしている.
実験的な空間の結果, いろいろなパラドックスは確かに起きている.
外と内 地と図 二極に分かれた空間.
地形のような場所での活動の可能性と, それに見合う家具の不在.
心理的には風景と連続していながら物理的には区切れている内部空間, 心理的には風景と断絶していながら物理的には連続している外部空間.
EPFLに比べれば, 後の軽井沢千住美術館や今回のGrace Farmsの'地形'はなだらかだ.
だからそこを訪れる人も, 使う人も, 空間体験の仕方が「容易」だと思う.
対照的にEPFLは, その空間の遊びたおしかた・使いたおしかたを訪問者に問うている建築だと思った.
218 Tokyo 2.0(ver. y-sag)
Tyler Cowenという経済学者が4/3にブログに書いた記事が話題になっている.
コロナ収束後の世界がどうパラダイムシフトするかを予測しているものらしい.
これまでも未曾有の大災害の後には, 必ず社会に大きなパラダイムシフトが起こってきた. 日本にとっては, 前回が2011.3.11.東日本大震災だった.
前回の時, 実は自分はその変化にあまり敏感ではなかった.
けれども, 今改めて振り返ると, あの時点からいろいろなことが変わり, その後10年つまり今の街のあり方, 建築のあり方が形成されてきたのだと, 今更ながらに気づくのである.
一方で, 大災害は確かに契機ではあるが, それ自体が変化の理由を作っているわけでもない気もしていて, 実は変化する兆しや動きや衝動はその少し前からあって, 大災害によってその方向性が決定づけられた, というのもまた事実だと思っている.
今回の空気感は, 東日本大震災の時とある点で非常によく似ている.
多くの人が, 初めはその事態の重大性を正しく認識しきれておらず, どんどん被害・損害が拡大していき, 気がついた頃には取り返しのつかないほど事態が大きく自分の日常生活に及ぶほどになった. つまり正常性バイアスが働いていたのである.
異なるのは, 東日本大震災が物理的なインフラ=ハードウエアの大規模崩壊だったのに対し, 今回のコロナはよりソフトウエア=人の往来の大規模休止(もしくは崩壊)ということ.
今回のこの変化の契機をきちんと観察するため, 上のWorld 2.0にも触発されつつ, 自分なりのポストコロナ後の東京圏(まちづくり・建築界隈)で起こるパラダイムシフトを予想してみたいと思う.
名付けてTokyo 2.0 (ver. y-sag).
1. 地域のあり方:公共建築の時代が終焉する
これまでは行政発注の大きな公共建築が, 地域の暮らしを豊かにする機能を担ってきた.
これからは, 地域の住人が自主的に作る点在する小さな公共空間がその役割を担う.
地域の住人が作ってくれる上どこの行政も財政難なので, 行政はわざわざ公共建築を作る必要がなくなる. ただし, 特に人口の少ない地方では引き続き行政が公共空間にテコ入れする必要が存続していく可能性はある.
2. 仕事のあり方:オフィス建築の時代が終焉する
テレワークが多く実践され, 誰もがこれまでは当たり前と思ってきた朝満員の電車に乗って都心のオフィスに通う生活の異常さに気づいたはずである.
働き方は, 都心集約型から近隣生活圏型に, 企業単位からプロジェクト単位に変わる.
これからのバリューは, 会社名ではなくプロジェクトになり, 誰とやるかになる.
企業を企業たらしめていた都心のオフィス建築は不要となり, プロジェクト単位で柔軟に集まれる場所, プロジェクトのネットワークをすぐ組める場所, プロジェクトを含めた生態系(エコシステム)に組み込まれる場所が求められるようになる.
3. 街のあり方:飲食店の非固定店舗化が進む
駅から○分の良い立地, 良い条件の居抜き物件を探し, 家賃と敷金礼金を支払い, 内装工事を施して, 店先に花輪祝いを飾り, 晴れて固定店舗としての「自分の店」を持つ.
けれど今回, そんなあり方の非効率な部分, リスキーな部分が顕在化した.
今後増えてくるのは, 固定店舗を持たず, 時と場所を変えて自分の店を構えるノマドのような飲食店起業者たち.
そのインフラとしての「営業許可付きシェアキッチン」は既に全国に揃いつつある.
違いは, これまでが開店前の起業者向けだったのに対し, これからはそれ自体が彼らにとっての「開店」になるというところだろう.
4. 消費のあり方:カスタマイズ・半生産が好まれるようになる
価格も評判もスマホ一つで調べて比較できてしまう時代.
製品が故障して修理したい時, 正規のカスタマーサポートよりネット掲示板の方が役に立つことが多くなってしまった時代.
メーカーとか製品とかサービスとかの存在価値って何なのだろう.
一つ指針となるのが, この先はあらゆる分野でオープンソースな製品・サービスの時代が求められるだろう, ということ. 製品としての完成度より, その後の展開や応用の方が求められるのではないかということだ.
IT分野で既に一般的だが, それがIoTに拡がって物的製品にも適用される今, 求められるのは汎用性かつカスタマイズのしやすさの両立であり, そのわかりやすさであると思う.
一見これとはつながりのない, 建築・まちづくり分野においても無縁のものではない.
5. 建築のあり方:提案型というより誘導型になる
こんな時代の建築や建築家のあり方はどうなるだろうか.
「公共建築の時代が終焉する」となれば, 建築家に求められるのは行政長や教授等権力者を納得させるカタチの提案力ではなく, 非常に微細な地域の人々の方向性を組み上げて形にしていく関係性への誘導力かもしれない.
※これはコロナ以前以後に関わらず10年前くらいから建築界の動きはずっとこうである.建築にとってのカタチや空間の重要性はもちろん変わらないし, 「ハードよりもソフトが重要」ということを言いたいのではない. 提案型ではなく誘導型の時代になった時, 必要とされる建築のカタチや空間はもちろん変化するだろうということを言いたいのである.
生態系(エコシステム)というのがそのキーワードな気がしている.
ただし, 自然共生型のエコな建築を作ろうという意味ではない. ここで言いたいのは街や周辺の産業など含めた, 非常に多様なものが混在する社会的な生態系のことである.
身近なものとして, アクアリウムをイメージしてもらいたい.
鮮やかな熱帯魚たち, 彼らの隠れ家になる様々な水草たち, その水草の陰でひっきりなしに砂を吸い込んで吐き出すハゼの仲間たち, 水中の排泄物を食べて綺麗にする貝の仲間達. さまざまな見た目・様々な役割の生物達が一つの環境に共存し, その環境作り自体に参加している.
どんなバランスでどんな生物や植物を配置して, 水温は何度くらいにして, 彼らが生き生きと泳ぎ長生きする環境を作り出すか.
提案型の建築とは, 言ってみればいかにかっこいい水槽をデザインするか(だけ)だった.
しかしこれからは, その水槽の中に作り出される環境こそがデザインの対象なのだと思う. もちろんコントロールする対象が多様な生物群なので100%は思い通りには行かない.少し水草の種類を変えたり, 試行錯誤しながらだんだん最適な状態が作られていくことの方が多い.
いかに彼らに素晴らしい環境を作ってもらうか, それは誘導的に行なっていく部分が強いのだと思う.
え、それは建築家の役割では無いのでは, って? いや, 水槽のデザインから自分でできてしまう建築家だからこそ, 面白いものが作れるし, やるべきだと自分は思うのだ.
最後少し抽象的になった.
何れにしても, コロナ収束後何らかの大きな変化がジワジワと染み込んでいくはずである. 自分はそれは非常にポジティブな変化になると, 現段階では信じている.
414 建築化された「散歩」_Grace Farms(2)
丘の起伏に沿って蛇行する「散歩道」.
途中途中にガラスで仕切られた屋内空間が出現する.
それぞれがサロンだったり, レストランだったり, 図書室だったりする.
いずれも徹底されているのが, 「室」にならないようにしていること.
あくまでもサロンもレストランも図書室も, 「通路」つまり「散歩道」の一部として作られている.
「室」となれば, そこは明確にその機能として分けられてしまう.
けれどこれが広い「通路」だとどうだろうか.
機能の範囲は曖昧となり, 核と, その周縁のグラデーショナルな部分が発生する.
人が集まって活動している場と, その周縁の, 活動を眺めながら素通りしたり遠巻きに眺めたりする場所がある.
いわゆる<活動=アクティビティ>との距離感を, 散策者が自由に選択できるようなつくりだと言える.
この建築を巡っていたら, 数年前に訪問したEPFLラーニングセンターのことを思い出したので, 次は少しそこに触れることにする.
つづく
413 建築化された「散歩」_Grace Farms(1)
鉄道駅から歩くこと約1時間半.
随分と長い道のりだった.
ここはニューヨーク郊外のNew Cannan.
アメリカでも特に富裕層の多い街.
途中の道のりには, 森林の中に別荘のような邸宅が並ぶ.
やっと辿り着いた, Gracefarmsの正門.
これだけだと, まるでゴルフ場のようだ.
時計は11:45.
無情にも守衛から「12:00まで開門しない」と告げられ, しぶしぶそのあたりの芝生に座って時間を潰す.
ゆるやかな芝生の丘.
家畜用の柵の向こうにやっと見えてきたのが, 今回目的の建築物.
木質仕上げのうねる屋根が踊る異質な建築物.
けれどそれはあたかも丘沿いに広がるピクニックルートのように,
敷居も何もなく, 来訪者を迎え入れる.
建築というよりは公園の延長, 東屋のようなもの.
月並みな表現だが, それがこの建築を見たときの第一印象だった.
つづく
412 フォートワースという街
イリノイ州のシカゴからテキサス州のフォートワースに入った途端,
同じアメリカなのに全く違うものに感じられた.
空気感, 物価, 治安, 食事.
空港から列車でフォートワース駅に降り立つと, 目に入ってきたのは,
西部劇のように腰に銃を差した警官たち.
物々しい雰囲気.
モーテルに向かう路線バスで駅から数分後車窓にあったのは, おびただしい数の路上生活者たちだった.
フォートワース駅の東側, ハイウェイのジャンクションあたりにはホームレス保護施設や廃品ショップが並ぶ. 乗ってはいけない路線に乗ってしまったような気がした.
1日目の夜はあまりに外に出るのが怖すぎて, モーテルの自販機で売ってたインスタントラーメンで夕食を済ませたくらいだった.
乾燥した空気感, 粗野な街並み, ポップなサイン, フレンドリーな人々, 時々話しかけてくるヤバい結構危険な人, 低めの物価, 美味い食事.
ヤバい人たちを除けば, 結構良い街だと思え始めたのが2日目くらいから.
この日はフォートワース北部のStockyardsと郊外のGrapevineを巡った.
いずれもいわゆる観光地, ただあまり海外旅行者が行くところでもないのかもしれない.
Stockyards
Stockyardsはかつての家畜取引市場.
西部劇そのままの街並みが残っている.
奥にあるStockyards Stationには, かつてここから出荷するための貨物の引込線路が残り, 貨物駅特有の広大な倉庫や長い通路が, ショップやレストランとして活用されている.
レールが一直線に横たわる, リニアな大空間が壮観.
交通インフラ特有の大空間. 天井ファンが回る.
乾いた空気. 静寂. 悪くない空気感.
Stockyardsから更に北へ鉄道で30分ほど.
サイロが聳えるGrapevine駅.
これと言う観光スポットがあるわけではないが, レトロな街並みとのんびりとした空気感が心地良い.
見所としてはほぼ駅前に伸びる目抜き通りにまとまっている.
Palace Theaterという, ちょっと昔のアールデコ様式の映画館.
それはおそらく映画館というビルディングタイプが出てきた時期がちょうどアールデコ様式の時代と重なったためだろう.
このイメージはたぶん日本で戦後に建てられた映画館にも真似して取り入れられている.
この建物を見て, 瞬時にTHE映画館と感じるのはそのためだろう.
典型的な映画館なのだがよくよく見ると, 入口上の適度に控えめな装飾的な庇や,
白壁にツヤ感のある真紅色のタイル壁や, 明るい色の木扉など, 品の良さを感じる.
Grapevineはワインの街でもある.
街中にもいくつかエノテカがあり, 様々なテキサスワインを楽しむことができる.
帰りにはワインを1杯引っ掛け, その後ハシゴしてマルガリータを1杯.
ラフな空気. ポップな看板.
小さなエリアを巡った1日だったが, なぜか今回のアメリカ旅行で一番,
典型的なアメリカらしさを感じた1日だった.
218 「ハマスホイとデンマーク絵画」展
美術館で初見した自分が知らない画家の絵画.
それがずっと脳裏に残り続けるのは珍しいことだ.
ちょうど昨年の2月頃のこと.
上野の国立西洋美術館の常設展でこの画家の作品を初めて目にした.
たしか企画展の「ル・コルビュジェ_ピュリスムの時代」を見た後だったと思う.
いつものように, 常設展はサラっと遠目から流すように, ちょっと気になった絵画だけ近づいてみるようにして廻っていた.
「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」
という作品だった.
一見, 部屋と奥でピアノを弾く後ろ姿の人物が描かれただけの普通の絵なのだが,
抑制された色使いと, 一部超写実的な描写にただならぬものを感じて立ち止まった.
「新規収蔵作品」との表示があった.
これまで見たことも聞いたこともない画家.
しばらくその作品の前に立っていた.
非常に寡黙だが, 独特の空気感のある作品だった.
そんなハマスホイの絵画が企画展で見られるということで, 先日行ってきた.
前半は同時代(1800年代)のデンマーク絵画が中心で, 後半にハマスホイの作品が並ぶ.
いずれも, ここ10年ほどで見た絵画展の中で一番印象に残ったと言っても過言ではないほど, 自分にとっては印象的なもので, ヨーロッパの古典美術的なベースを持ちながら, どこか非常に現代的に感じられる様相があった.
先述の「ピアノを弾く妻イーダ」の絵画.
手前の銀皿のある円卓の上はとても精緻に写実的に描かれている.
それに対して, 奥の扉や肝心の人物は若干ぼやかされている.
円卓の一点にピントが合わせられ, そこからの距離感によってピントのボケのような感じで部屋の奥行きが表現されているように見える.
同じく本展に展示されているギーオウ・エーケンという画家の
「飴色のライティング・ビュロー」
という作品にも同じような技法が感じられる.
画面右側, 表題の書き物机の飴色の表面に反射する光や, 壁面の額縁表面に映り込んだ後景などが, やはり精緻に描かれている.
対して画面左側は焦点からズレているかのようにぼやかされている.
これはつまるところ, 写真特有の技法ではないか.
写真や映像ではよく被写界深度を操作し, あえてピントの合う範囲をフォーカスさせ背景をぼかす技法が用いられる.
これらの絵画も, 画面の一部にピントが設定され, 奥行き感が思い切り強調されている.
絵画は通常, 人間の目で見た状態, つまりすべてにピントが合っている状態が描かれると思うのだが, これらのデンマーク画家の作品は共通して写真や映像作品のように, レンズを通して見たような状態をあえて描いているように見える.
別の画家, ユーリウス・ポルスンによる「夕暮れ」という作品.
まさに画面奥(中景と後景の間あたり)に焦点があり, 肝心の描く対象物となる風景部分は全てピンボケした状態を描いている.
古典的な西洋絵画でこのような表現のものがあっただろうか.
この絵は, 止まった一瞬を静止したものとして切り取ったというより, 何か画面自体がまだ時を続けるような, 次第にピントが合っていくのではないかというような印象を与えている気がする.
彼らの絵画を非常に現代的だと感じたことの正体は, もしかしたらこの独特の表現にあるのではないか.
彼らの時代にそうした概念がどれほどあったかは不明だが, 少なくとも我々はiPhoneとinstagramが普及し, 進歩した映像技術が身近になった時代に生きている.
被写界深度のコントロールは今や映像でも容易に行えるようになり, 多く映像作品がその技法を取り入れている.
レンズを通したようなこれらの表現は, 人間が目で見て描いたのでは欠落しそうな, 空間にある微妙な歪みや空気感などを, 観るものに感じさせる.
また映像でこうした表現を見慣れた我々からすると, これらは静止画ではなく焦点距離が動く動画を連想させる.
実は北欧は映像撮影機材で優れた企業が多いという話を聞いたことがある.
北欧独特の映像に対する繊細さが, もしかしたらこれらの絵画にも表れているのかもしれない.
印象に残った作品の一つ, ハマスホイの「農場の家屋, レスネス」。
大地・二棟の家屋・空, この間に存在するさまざまな光の対話・大気の対話が精緻に描かれた作品.
シンプルで, 静謐でありつつ, これもまた脳裏に刻まれる作品だった.
※写真は展覧会公式図録より
411 シカゴという街
一般的に, アメリカの街並みには風土や歴史があまり無い.
それは真だろうか.
シカゴは典型的なアメリカの街並みだが, 歴史を帯びつつある街で印象に残った.
シカゴはある意味, 最古の摩天楼街が原型をとどめている街だ.
1871年シカゴ大火を契機とした再開発が, シカゴ派なる建築運動を呼び, 鉄骨造の高層建築群が形成された.
その後, 高層ビルは大量に劣化コピーされアメリカ各地でも, ここ日本でも建設されている.
シカゴの街には独特の空気感がある.
摩天楼の街でありながら, 果てしなく大都市というわけではなくどこかコンパクトな印象を受けた.
摩天楼は中心部にほぼ固まっていて, 周縁には緑地や大学キャンパス, 良好な低層の街並みが広がっている.
このシカゴの中心部を特徴付けているのが, The Loopと呼ばれる高架環状線の存在だ.
この高架環状線と車道の接点の横断歩道が, シカゴの風景をつくっているといっても過言ではない.
環状線というと, 日本では山手線などを思い浮かべる.
けれどシカゴのループは, それよりはるかにこじんまりしている.
ループと車道が交わる交差点からあちら側をみると, 見える距離にループのあちら側があるのだ.
ループには, さまざまな方面からの列車が乗り入れ, ループを一周して別の方面へと向かう. だから数分おきにループの上を動く車両が見える.
ここまで交通の頻度が多いと, 交通の概念が少し変わって見える.
ループは一定の高さで常に高架というのもなかなか特徴的だ.
その高さはだいたいビルの3Fレベルくらい.
林立するビルの壁すれすれを列車が走る.
ループでしか見れない都市の断面がある.
そしてその駅のホームは渋い木張りの床と可愛い形の電灯.
交通が楽しいと街も楽しい.
(しかし若干交通費が高い.)